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黒井城跡

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年11月8日更新

国指定文化財 (史跡) 平成元年8月11日指定

 所在地  春日町黒井他
 所有者  黒井区他
 管理者  丹波市

黒井城跡

  黒井城跡は中世末期、奥丹波の盟主であった(荻野)氏の居城跡で、織田信長の丹波攻略の際には、二度にわたって明智光秀の攻撃を支えた城である。 本丸をはじめとする山頂の曲輪群は、堅固な石垣で囲まれ、三方に伸びる山稜上に城砦群を配して、全山を要塞化したこの城の構えは、光秀の攻撃を長期にわたってしのいだその歴史にふさわしいもので、戦国期山城の典型として高い評価を受けている。
  城跡は標高356mの猪の口山を中心に広がり、本城部分は南北に約150mの山頂を削平して、北から本丸・二の丸・三の丸を段階状に配置している。またその一段下に、これを取り巻くように東曲輪・西曲輪及び帯曲輪を配して防御を固めている。
  また、大手口・二の丸・本丸などの主要部分には石垣を築いているが、いずれも野づら積で、天正期の構築と考えられ、本丸二の丸からは、今なお部厚い平瓦・軒丸瓦・雁振瓦などが見い出され、かなりの規模の瓦葺建造物があったことが想像される。
  黒井城跡は永禄から天正期の城郭遺構が、その後改変の手が加わることなく良好に残されており、城郭史上きわめて貴重な城郭である。

黒井城跡赤色立体地図

黒井城跡主郭部周辺赤色立体図(測量・図化・アジア航測株式会社)

黒井城の歴史

 黒井城の歴史は、赤松貞範(則村の二男)が建武2年(1335)丹波国氷上郡春日部荘を与えられ、山頂に簡素な城を築いたことから始まるといわれる。赤松氏の後は早くから対立関係にあった荻野氏が城主となり、荻野正元・荻野秋清らが在城したが、天文23年(1554)一族の荻野直正が秋清を倒して入城し、悪右衛門と称した。
 直正は、赤井一族を統率し、永禄8年(1565)には丹波守護代の内藤宗勝を倒し、氷上郡のほか天田郡・何鹿郡を制して丹後・但馬にも勢力を拡大した。今日にも見る黒井城の遺構の大半は、この時期に改修・構築したものであろう。城主荻野直正は、元亀元年(1570)織田信長より丹波奥三郡の安堵をうけたにもかかわらず、天正初年以降、逆にこの黒井城を本拠として、反織田勢力の一翼を担い、武田勝頼・石山本願寺・毛利氏(吉川元春)らと意を通じた。
 天正6年(1578)直正は病死し、その子直義の後見として直正の弟幸家が一族を指揮したが、天正7年(1579)8月9日ついに落城、光秀の丹波攻略は完了した。
 氷上郡一帯の統治のため、黒井城に入ったのが光秀の重臣斎藤内蔵助利三で、利三は下館を陣屋とし、領内の治安と復興に力を注いだが、この陣屋で利三の末娘として生まれたのが、お福・後の春日局と伝承されている。

興禅寺の外観の写真 下館であった興禅寺

国史跡黒井城跡パンフレット [PDFファイル/4.76MB]

登城路について

 黒井城跡の登城路はゆるやかコースと急坂コースの2つがあります。
 どちらから登っても途中に猪垣門扉がありますが、開けたあとは必ず閉めてから登ってください。

 黒井城跡登城路 [PDFファイル/104KB]