柏原藩陣屋跡

更新日:2024年03月19日

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柏原藩陣屋跡

砂利道の奥にある瓦屋根の日本家屋の写真
右上に空き地と山の広がる航空写真

 柏原藩陣屋跡は、柏原藩2万石の居館及び政庁として正徳4年(1714)の造営から途中火災に見舞われましたが、廃藩置県を迎えるまでその役目を果たしました。
 現存する建物は、陣屋の表御門にあたる長屋門と表御殿の一部ですが、全国でも数少ない陣屋遺構として、また明治以降小学校として使用された経緯から幕末から近代に至る学制の変遷を考えるうえでも貴重であるとして、国の史跡に指定されています。平成15年度から行っていた史跡整備工事は平成23年度に完了しました。

指定年月日

昭和46年1月6日 (昭和46年1月6日付け文部省告示第2号)

指定場所

柏原町柏原683番地のうち実測3,161.87平方メートル、同688番地のうち実測1,086.7平方メートル(面積4248.61平方メートル)

指定理由

 柏原藩は、慶長3年織田信長の弟信包が封ぜられたのち、その家系が3代で絶え、一時天領となったが、元禄8年大和宇陀郡松山より織田信休が移封され、その子孫が代々2万石を領して明治維新に至った。
 藩邸は移封より20年を経た正徳4年にはじめて造営され、藩主信休もこの時江戸より柏原に入部したが、その後100年余を経過した文政元年信憑の時邸内よりの出火のため全焼した。この後に再建された藩邸は、明治5年の学制発布により翌年豊岡県より払下げられて小学校校舎となり、崇広小学校と称した。その名は、安政5年藩主信民が小島省斎を教授として開校した藩校崇広館の名に由来する。このうち崇広小学校の一部として現存する建物は、玄関・式台とこれにつづく書院上の間・同次の間・御使者の間・同次の間とこれをとりまく入側などの部分で、大正3年まで残っていた中ノ口・御広間・大広間等は建替えられており、御家具部屋・御用所等は取壊された。現在、校門に用いられている藩邸の長屋門は焼失を免れ、正徳造営当初の遺構を伝えるものと思われ、省斎の筆になる「尚徳門」の額をかかげ(現在は資料館に収蔵)、桁行十三間半、梁間二間、南に八畳三間、その北に脇戸付門、さらに北に八畳一間と土間を有する。
 以上の建物が敷地とともに明治の小学校に転用され、明治18年洋風木造2階建の校舎が新築されるまで用いられ、現在もそれを継続していることは、学制の発達を考えるうえでも重要である。今回指定するところは、旧陣屋の敷地のうち藩邸と長屋門を含む一角である。

陣屋とは?

  1. 戦の際に臨時に設営された駐屯所。軍営。
  2. 幕府郡代、代官などが各任地に所有している屋敷、役宅。
  3. 無城の大名(大名の家格の一つ)や交代寄合(参勤交代の義務を持つ旗本)などの屋敷。

のことを言います。(2)で有名なのは飛騨の高山陣屋です。柏原藩陣屋跡は、(3)の陣屋で、建物が江戸時代と同じ場所に残っているところは、全国でもわずかしかありません。

陣屋の建物

 陣屋は背後を大内山に抱かれた緩やかな傾斜地上に立地し、当時の城下町の最も高い所に位置していますが、高低差はほとんどなく典型的な平地立地の陣屋遺構です。
 規模は東西130メートル、南北160メートルで、大内山に接する南東部の一角が張り出すように突出していて、自然地形を巧みに取り込んだ回遊式の庭園が築かれていました。防備施設としては石塁の上に高塀を巡らしているだけで、堀や土塁は構築されていませんが、陣屋の正面付近には桝形等が備えられ、周囲は長屋門等7ヵ所の門が設けられていました。
 陣屋内には表御殿、中御殿、奥御殿からなる主屋、藩政を執行する御用所、藩校の崇廣館、厩(うまや)、土蔵、作事所等の建物や、北東隅には稲荷神社も配され、馬場や訓練所も広大な面積を占める等、様々な施設が集められており、領内に築かれた政所としての機能を備えた館でした。

長屋門(県指定文化財)

瓦屋根の横に長く伸びた門の写真

 陣屋の表御門(正門)にあたり、火災を免れ正徳4年陣屋造営当時のものが現存しています。
 間口十三間一尺二寸、奥行二間の単層長屋門形式で屋根は入母屋造桟瓦葺平入。門の両側が長屋のように仕切られているためこの名があります。
 門戸を挟んで北側に番所・土間、南側に馬見所・砲庫があります。門扉部と馬見所・砲庫などはほぼ原形を保っていますが、北側の番所部分は北端の柱筋や壁が当初のものではなく、本来はその北側に接続された部分があってその後の改造で切断されたものと考えられます(絵図では表御門と同棟の長屋形式の裏御門が描かれているので、おそらくそれは当初の姿と推測されます)。また、馬見所は板敷になっているが砲庫との境に段差があって、当初は番所と同様に畳敷であったと推測されます。

表御殿(文政3年再建)

二つの掛け軸のかかった和室の写真

書院上の間

陣屋の模型を上から撮影した写真

陣屋跡復元模型(御殿部分)

 表御殿は平屋で屋根は寄棟造、西面、南面、東面の三方に土庇が付いています。正面玄関唐破風は桧皮葺。式台・玄関の正面は大床、北は広間、東は長柄の間、南は使者次の間、使者の間が設けられ、さらに使者の間の東は書院次の間、書院上の間と続きます。ここは、藩士や来客が藩主と対面するなど公的な儀式の場として使用されていた場所です。書院の間の北は溜の間と武者隠が付いています。表御殿の建物は、文政元年(1818)の火災で焼失した後文政3年(1820)に再建されたものです。

柏原陣屋御殿の平面図

中御殿(現存せず)

 表御殿につづいてあった御殿で、藩主が政務や日常生活をしていた場所です。

奥御殿(現存せず)

 女中や国許の側室が生活していた場所です。

御用所(現存せず)

 藩士が政務を行っていた場所です。明治時代の古写真や絵図を見ると、御用所は2階建てとなっていました。

台所(現存せず)

 藩主たちの食事を作っていた場所です。

このほか米蔵や味噌蔵、下台所などもあり、また表御殿の南東側(現在の崇広小学校グランド)は回遊式庭園もあったことが絵図面からうかがわれます。

柏原藩の歴史

 柏原藩は慶長3年(1598)信長の弟である織田信包(のぶかね)が氷上郡のうち3万6千石を与えられたことにより始まりましたが、3代藩主信勝に継嗣がなく慶安3年(1650)信勝の死去とともに藩は廃絶し、領地は没収されました。
 再び柏原藩主となったのは元禄8年(1695)、大和松山藩(現在の奈良県宇陀市)から丹波国氷上郡へ国替えとなった織田信休で、信休は丹波国氷上郡のうち44ケ村、何鹿郡8ケ村、天田郡5ケ村の合計2万石を領し、再び柏原に本拠を置きました。その後10代にわたってこの地を治め、明治4年(1871)の廃藩置県をむかえました。
 地元では、信包からの3代を「前の織田」、信休からの10代を「後の織田」とも呼んで区別しています。

史跡整備工事の内容(平成15年度~平成23年度)

1.表御殿桟瓦葺替工事(平成15年度~平成16年度)

 昭和48年の葺き替え工事から約30年が経過し、瓦の破損、垂木の傷みが目立ってきていました。今回の工事では、すべての瓦を降ろした後、再利用できるものとできないものを選別し、垂木等木部の腐朽部分を取替えて、新たに葺きなおしました。

瓦をはいだ屋根の写真
職人が瓦を屋根に張り替えている写真

修理前は土居葺となっていましたが、屋根の重みを減らし、瓦をしっかりと固定するため杉板の下地に桟木並べ銅線で瓦を連結して筋状に土を置いていきました。

古びた木でできたの骨組みの写真
職人が新しい木で骨組みを作っている写真

垂木や野地板などの腐朽部分は取り替えたり、補強を行いました。

鬼瓦とメジャーと鬼瓦の説明図が並んでいる写真
花のあしらわれた鬼瓦の写真

大棟及び隅棟には鬼瓦がのっていますが、修理前の鬼瓦は柏原藩主織田家家紋である織田細瓜紋ではなく、織田木瓜紋の入っているものがありました。今回の修理では鬼瓦は建物の顔となるものであるため、織田細瓜紋にしました。

2.檜皮葺替工事 (平成17年度~平成18年度)

 表御殿玄関部の檜皮葺替(平葺面積 111.90平方メートル)を行いました。

施工管理者が資料を工事物と照らし合わせている写真

改修前の檜皮

ブルーシートの貼られた木組みの屋根の写真

檜皮の解体(野地)

檜の皮の大きさをそろえ重ねて竹釘でとめていきます。

ヘルメットを付けた人がピッケルを持っている写真

軒付(のきづけ)・軒付切

木組みの屋根を修繕する男性の写真

平葺

3.環境整備工事(平成19年度)

 大雨時の雨水が史跡地内建物へ及ぼす悪影響を取り除くために、土砂すき取り等の基盤整備と史跡地南側の排水、現存建物周囲の雨落ち溝の改修工事を行いました。
 また、御殿玄関前の石畳の石を据え直し、玄関両脇にあるカイヅカイブキを移植するための根回しと、史跡地範囲を明確にするための生垣設置を行いました。

砂利の敷かれた庭園の奥に建つ日本家屋の写真

4.カイヅカイブキ移植工事(平成20年度)

 表御殿玄関の両脇にあったカイヅカイブキは、明治期に陣屋が小学校として利用されていた時期に植えられたものです。
 江戸時代の陣屋には無かったものですが、明治以降小学校とともに住民の方にとって愛着のある樹でもあったため、敷地内で遺構等に影響のない場所に移植しました。

2本の大きな木の奥に建つ日本家屋の写真

移植前

砂利道の先に建つ瓦屋根の日本家屋の写真

移植後

土の広場に植えられた2本の大きな木の写真

移植したカイヅカイブキ

5.環境整備工事(平成21年度~23年度)

 第2次の環境整備工事として、表御殿南側をはじめとする植栽の整備、築地塀と木柵の設置、現在は失われてしまった御用所・台所跡の表面表示を行いました。平成23年8月にすべての工事が終了し完成しました。

芝生の庭園の奥に2階建ての建物の見える写真

(1)表御殿北側表面表示

1から5の数字が書かれた陣屋の平面図
木々の植わった砂利の敷かれた庭園の写真

(5)表御殿南側庭園

大きな敷地に建つ陣屋の写真

(2)表御殿玄関前全景

青空の元砂利道の先に建つ瓦屋根の日本家屋の写真

(3)表御殿正面

砂利の敷かれた敷地に建つ日本家屋とその奥に見える山の写真

(4)表御殿南側全景

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