柏原藩 藩校 崇廣館

更新日:2024年03月19日

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柏原藩藩校 崇廣館

折れ線が入っている木造二階建ての白黒写真

 柏原藩には幕末に開校した藩校又新館(ゆうしんかん)と崇廣館(そうこうか崇廣館ん)がありました。

 崇廣館の名称は、明治6年(1873)に開校した崇廣館小学校、のちの崇広小学校へと引き継がれています。

小島 省斎(こじま しょうさい)の登用

 小島省斎(文化元年[1804]-明治17年[1884])は、佐治村(現・丹波市青垣町佐治)の煙草商の家に生れました。京都の儒者・猪飼敬所(いがい けいしょ)の門弟となり折衷学を学んだあと、帰郷して文政12年(1829)私塾「竹西亭」を開くかたわら但馬聖人と呼ばれた池田草庵とも親交がありました。

 省斎は、6代藩主信古に登用されてから、10代藩主信親まで4代にわたって重用され、嘉永4年(1851)に8代藩主信敬に提出した五か条の建白書の最後には、「学制を厳にする」と教育の重要性を説いています。天保13年(1842)からは隔月5日間殿中で藩主や藩士に対して講義を行いました。

 また文久2年(1862)には9代藩主信民の招きに応じて柏原に移り住み、藩政改革を推進するとともに藩を勤皇派へと導きました。

 門弟には、田艇吉(氷上郡長・阪鶴鉄道社長)・田健次郎(逓信大臣・文官で最初の台湾総督)・津田要・田村看山らがいました。

白髪で長く白い髭の老人が着物を着ている白黒写真

小島省斎 87歳(「兜山餘芳」より)

長文が刻まれている大きな石碑が建っている写真

小島省斎顕彰碑 明治20年(1887)

藩校 又新館と崇廣館

書印が押された古い書物の写真

又新館の蔵書印がある「戦国策」

 8代藩主信敬は、嘉永2年(1849)北町に藩校又新館を開校しましたが、嘉永6年(1853)に18歳の若さで亡くなったため、又新館も廃校となりました。

 9代藩主信民は又新館が廃校になったことを悔やみ、新たに陣屋の北西隅(現・兵庫県丹波県民局テニスコート)に藩校を建てようとしました。しかし、財政難であったため藩校の建築を領民に諮り、それに賛同した領民からは木材や金品などの資材も献上されました。

 こうして崇廣館は安政4年(1857)春に起工、翌5年(1858)秋に完成し、後に柔道場や槍道場も建てられました。

「崇廣館」と「尚徳門」(しょうとくもん)

 藩校・崇廣館の名は、幕府の大学頭(だいがくのかみ=昌平坂学問所の長官)林復斎によって命名されました。これは、『易経』の「聖人所以崇徳而廣業也」(聖人の徳を崇(たか)くし業を広むるゆえんなり=聖人は自分の徳をみがいて充実させる)から名づけられました。

 林復斎自筆の「崇廣館」書と、この書を基に作られた「崇廣館」木額(市指定文化財)が現存しています。

 また、藩校の校門は小島省斎によって「尚徳門」と名付けられ、省斎の筆による「尚徳門」の額が残っています。この額は、尚徳門がなくなった後も陣屋の表御門である長屋門に長らく掲げられていました。

毛筆で崇廣館と白文字で書かれた木額の写真

崇廣館木額(丹波市指定文化財)

毛筆で尚徳門と白文字で書かれた木額の写真

尚徳門額

崇廣館講堂

 安政5年(1858)に建てられた崇廣館の中心的な建物が講堂です。明治初期に描かれた「柏原県庁及士族卒屋敷図」には、藩校として使用されていた頃の崇廣館講堂の平面図が描かれています。

 この図によると、建物のほぼ四方に縁を廻らし、玄関式台を上がると北側以外の三方には入側があります。その内側に6室が設けられており、北側奥の2室には床間がしつらえられていました。この6室は、襖などの間仕切りで仕切られているため、間仕切りを取り去れば大広間としても使用することができるようになっています。

 ここでは生徒が講義を受けるだけでなく、毎年2月と8月の最初の丁(ひのと)の日に孔子を祀る釈奠(せきてん)が行われる場でもありました。(他藩の藩校では、孔子を祀る孔子廟や聖堂がおかれて、そこで釈奠が行われることもありました。)

 解体前の崇廣館や現在残っている写真では、2階建の建物ですが、これは明治15年(1882)氷上郡役所として使用されている時に2階を増築したものです。

 2階へとあがる階段部分や巾木などにはオイルペンキを塗った材を使用し、擬洋風に仕上げています。しかし、外観は1階部分の和風建築とあわせるため、和風に仕上げています。

屋敷の間取り図

柏原県庁及士族卒屋敷図(明治初期)崇廣館部分

(丹波市立柏原歴史民俗資料館蔵)

古い二階建ての家を正面から撮った白黒写真

崇廣館での勉強

 崇廣館へは藩士の子弟で10歳以上の者が入学を許され、主に幕府が正学とした朱子学を学びました。教科書には、四書五経(「大学」・「中庸」・「論語」・「孟子」の四書と「易経」・「書経」・「詩経」・「礼記」・「春秋」の五経)をはじめ「小学」、「春秋左氏伝」、「史記」、「近思録」が使われ、毎日または月次に素読講義を課していました。

木額の中に掲示が書かれている古い写真

松平定信筆白鹿洞書院掲示

雲の形をした板状の彫刻の写真

雲板(表面)

一部が渦を巻いている雲の形をした板状の彫刻の写真

雲板(裏面)

授業開始と就業の合図に打ち鳴らされた共鳴板。『崇廣館学規』には「雲板を鼓する三聲にして教官排列す」とある。

裏面には、織田細瓜紋が陽刻されている。

明治以降の崇廣館

 明治4年(1871)廃藩置県により藩校としての役割を終えましたが、明治6年新たに藩校・崇廣館の名を引き継いだ崇廣館小学校が崇廣館講堂で開校し、しばらくの間小学校として使用されました。崇廣の名は、崇広小学校として現在まで引き継がれています。

 建物は、その後氷上郡役所、柏原病院、キリスト教会として使用され、昭和8年柏原高等女学校講堂建築のため大手通に移築されました。

 平成19年に解体し、現在も部材を保存しています。

明治以降の崇廣館の詳細
和暦 西暦 崇廣館の変遷
明治4年 1871 廃藩置県により崇廣館廃校
明治6年 1873 崇廣館において崇廣館小学校開校2月6日
明治12年 1879 氷上郡役所として使用(~明治41年5月)
明治15年 1882 2階部分を増築(「柏原叢志」)
明治41年 1908 元郡役所の土地建物を柏原町が470円で買収。
明治42年 1909 建物を改築して町立柏原病院完成(3月26日)
大正8年~大正11年頃 1919~1922 アメリカ人宣教師ソ―ントンが町から旧藩校建物を借りて日本自立聖書義塾を開く。
昭和8年 1933 兵庫県立柏原高等女学校講堂建設のため大手通に移築
戦後~昭和30年前後  
  • 兵庫県統計調査事務所柏原出張所
  • ことばの教室等に使用
平成19年 2007 部材を保存し解体

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