高源寺境内
市指定文化財 (名勝) 昭和53年10月4日指定
- 所在地 青垣町桧倉514
- 所有者 高源寺
- 管理者 高源寺

高源寺は、正中2年(1325年)遠谿祖雄が開創した中峰派の根本道場として、甲斐(山梨県)の栖雲寺が東天目山と称するのに対して西天目とよばれ、丹波屈指の名刹として知られている。
開山遠谿祖雄は、承元3年(1209年)武蔵国より佐治荘に来往して山垣城主となった足立遠政の孫、光基の三男で、幼にして出家し、徳治元年(1306年)中国に渡り、杭州天目山の中峰明本に参じ、服勤10年、遂に心印を得て正和5年(1316年)帰国したが、さらに10年を経て、佐治郷小倉の岩屋が霊夢で得た天目山に似ているとあって、ここに堂宇を創建して中峰派の宗風を挙揚した。このことが中央に聞こえ嘉暦元年(1326年)には後醍醐天皇より「高源禅寺」号を賜り、京都に召されたが、師の教えを守り山を出なかった。
以後、高源寺は栄え、八代一華碩由の代には後柏原天皇より勅願の礼遇と末代紫衣の宣旨をうけた。これにより、高源寺が単に禅の一派としてでなく、名僧相継ぎ、学問においても京都五山と並んで重きをなしていたことがわかる。
このように、高源寺の名は高まったが天正7年(1579年)織田信長の丹波攻めにあい堂宇が悉く焼失したため、享保年間に、二十四世天岩明啓が再興し、寛政11年(1799年)弘巌玄猊が柏原藩主の援助を得て再中興し現在に至っている。
堂宇は、総門・山門・仏殿・方丈・庫裡・鐘堂・三重塔・宝蔵があり、寺宝として、普応国師像をはじめ、天皇の震翰、雲岩祖欽・高峰玄妙などの墨跡、二十五条の袈裟他多数ある。また、紅葉の名所としても知られている。
更新日:2024年03月19日