黒井城跡
登城路は通常どおり
現在、登城路は通常どおり通行できます。
登城の経路については、下記の「登城路について」の項目をご覧ください。
注意
登山に適さない靴では、滑りやすくケガの恐れがあります。安全装備をしっかりして入山してください。

黒井城跡 東曲輪跡の二重石垣 空撮(主郭部)
国指定文化財(史跡)平成元年8月11日指定
黒井城跡は中世末期、奥丹波の盟主であった荻野(赤井)氏の居城跡で、織田信長とその家臣・明智光秀による、二度にわたる丹波攻略の舞台となった城である。本丸をはじめとする山頂の曲輪群は、堅固な石垣で囲まれ、三方に伸びる山稜上に城砦群を配して、全山を要塞化したこの城の構えは、光秀の攻撃を長期にわたってしのいだその歴史にふさわしいもので、戦国期山城の典型として高い評価を受けている。
城跡は標高356メートルの猪ノ口山を中心に広がり、主郭部は南北に約150メートルの山頂を削平して、北から本丸・二の丸・三の丸を階段状に配置している。またその一段下に、これを取り巻くように東曲輪・西曲輪及び帯曲輪を配して防御を固めている。
また、大手口・二の丸・本丸などの主要部分には石垣が築かれており、いずれも野面積で、天正期の構築と考えらる。本丸・二の丸からは、今なお厚い平瓦・軒丸瓦・雁振瓦などが見い出されており、相当な規模の瓦葺建造物があったことが想定される。
黒井城跡は永禄から天正期の城郭遺構が、その後改変の手が加わることなく良好に残されており、城郭史上きわめて貴重な城郭である。
- 所在地 春日町黒井他
- 所有者 黒井区他
- 管理者 丹波市
本丸虎口の石垣 三段曲輪

本丸の石垣
黒井城跡主郭部周辺赤色立体図(測量・図化・アジア航測株式会社)
黒井城跡の歴史
黒井城跡の歴史は、赤松貞範(則村の二男)が建武2年(1335)丹波国氷上郡春日部荘を与えられ、山頂に簡素な城を築いたことから始まるといわれる。赤松氏の後は早くから対立関係にあった荻野氏が城主となり、荻野正元・荻野秋清らが在城したが、天文23年(1554)一族の荻野直正が秋清を倒して入城し、悪右衛門と称した。
直正は、赤井一族を統率し、永禄8年(1565)には丹波守護代の内藤宗勝を倒し、氷上郡のほか天田郡・何鹿郡を制して丹後・但馬にも勢力を拡大した。現在残されている黒井城跡の遺構の大半は、この時期に改修・構築したものと考えられている。城主荻野直正は、元亀元年(1570)織田信長より丹波奥三郡の安堵をうけたにもかかわらず、天正初年以降、逆にこの黒井城を本拠として、反織田勢力の一翼を担い、武田勝頼・石山本願寺・毛利氏(吉川元春)らと意を通じた。
天正6年(1578)直正は病死し、その子悪七郎と、甥の赤井忠家が荻野・赤井一族を指揮したが、天正7年(1579)8月9日ついに落城、光秀の丹波攻略は完了した。
丹波攻略後の氷上郡一帯の統治のため、黒井城跡に城代として入ったのが光秀の重臣斎藤利三である。利三は黒井城跡の主郭部を石垣造りの城として改修し、下館を陣屋として、領内の治安と復興に力を注いだ。この陣屋で利三の末娘として生まれたのが、お福・後の春日局と伝承されている。
下館であった興禅寺
黒井城跡パンフレット

黒井城跡パンフレット (令和7年6月発行) (PDFファイル: 3.0MB)
※現在、パンフレットの在庫がないため、郵送を取りやめております。
パンフレットの郵送を希望される方は、社会教育・文化財課宛に返送用封筒をお送りください。ご送付いただいた返送用封筒に同封のうえ、送付いたします。
パンフレットが入る封筒のサイズは角2、パンフレットの重さは40gですので、ご注意ください。なお、郵送枚数は1枚までとさせていただきます。
(宛先はページ下の【この記事に関するお問い合わせ先】をご参照ください。)
登城路について
黒井城跡の麓駐車場からの登城路は2つあります。
どちらから登っても途中に猪垣門扉がありますが、開けたあとは必ず閉めてから登ってください。
取材や撮影について
黒井城跡でテレビ番組等の取材や撮影を考えられている方は、事前に当社会教育・文化財課までご相談ください。
場合によっては申請等が必要になる場合があります。





更新日:2026年09月16日